撃剣の歴史
日本は神代のむかし、細戈千足国(くわしほこちたるのくに)といって、剣・刀をはじめ多くの武器が存在したといいます。
第十代崇神天皇の時代、日本書紀に『會明、兄豐城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八𢌞擊刀。」』とあります。これは「夜明けに、兄の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が夢で御諸山に登って東に向い、八廻弄槍(ほこゆげ)し、八廻撃刀(たちかき)したことを天皇に申し上げた」というものですが、ここにある「撃刀(たちかき)」というのが、日本でいわゆる剣術を示したはじめの名称だとされています。
日本で刀剣が製作されるようになるのは、武神を祀る鹿島において、国摩眞人(くになずのまひと)が神託により「鹿島の太刀」(神妙剣の位)を授かったとされる5世紀頃からであり、古墳時代の埋葬品には直刀が多いといいます。この時代の直刀製作技術はかなり高度で、硬軟の鋼を複雑に組み合わせる技法がすでに出来上がっており、後の彎刀(わんとう)への発展の基礎となっていました。
外反りや鎬という構造を持つ日本刀(彎刀)の製法が確立されたのは10世紀後半頃とされています
剣術流派が本格的に発生・台頭するのは南北朝期から室町期の頃からで、それ以前の剣術的なものは「平家物語」や「太平記」などの軍記物語などで断片的に見られる程度でした。
以下に剣術・撃剣の歴史とその道具の変遷を大まかに見ていきます。
<南北朝から室町時代中期(1336頃~1490頃>
剣術流派の成立の時代。この時代に成立した流派に「鹿島の太刀」を継承した上古流、中古流から生まれた新當流・神道流、念阿弥慈恩を祖とする念流から工夫された中條流、室町中後期頃には後に新陰流を生む愛洲移香の陰流などがあります。現在の流派も遡ればこれらの流派に繋がります。
この時代はまだ竹刀の類いは無く、木刀や木の枝で稽古していました。思いきり打つと危険なので、寸止めや軽く打つ形で稽古していたと考えられています。
刃の付いていない刀や木刀を用いて実際に立ち合う例もあり、そのような試合や勝負においては、死闘でなくても大怪我をして不具となったり、死者が出ることもあったのでしょう
<室町時代中期から戦国時代(1490頃~1570頃)>
新當流、陰流、中条流から塚原卜伝(鹿嶋新當流)、上泉信綱(新陰流)、富田勢源(富田流の小太刀)、伊藤一刀斎(一刀流)などの剣豪があらわれます。
この時代、まだ木刀での稽古が主流でしたが、上泉信綱が今の剣道の竹刀の原型(撓、読みはシナイ。現代では袋竹刀と言われている)を考案します。これは、打突の感覚を保ちながらも、より安全に稽古を行うことを可能にするものでした。この袋竹刀の発想は、後の竹刀の発展に大きな影響を与え、武器を用いた自由な立ち合い稽古の普及を促すこととなります。
<安土桃山から江戸初期(1570~1640)>
上記の剣豪たちの弟子や孫弟子が活躍する時代。
新陰流上泉信綱の弟子
・柳生石舟斎やその子供や孫(柳生宗矩や柳生兵庫)、いわゆる柳生新陰流。
・疋田豊五郎とその弟子たち
・丸目蔵人(タイ捨流)
伊藤一刀斎の弟子
・小野忠明(将軍指南役)
・古藤田勘解由
薩摩の示現流などもこの時代にあらわれ、宮本武蔵もこの頃に活躍しています。
このくらいから撓(袋竹刀)が徐々に全国に広まり、様々な流派でも使われはじめます。この時代に各地で新しい流派がうまれ広まっていきます。
疋田豊五郎はこの頃に全国を廻り、袋竹刀を使って他流試合をしています。
戦国の世が終わって江戸期になり、幕藩体制が安定していく頃、戦場における実用的な剣の技量は次第に必須ではなくなっていきます。武士の気質も惰弱化して、剣術・武術は華麗さを競うようになり、実用的側面が二次的なものとなる傾向が出てきます。
<江戸時代中期(1650~1780)>
この時代に直心影流や中西派一刀流などに端を発し、防具を着けて竹刀(まだ袋竹刀)で試合をする事が広まります。他、心形刀流、神道無念流、鏡新明智流など幕末に活躍する流派もこの頃に出てきます。武家階層以外の剣士が増え、この階層から新たな流派が現れます。また、こういった武家階級以外の庶民の流派は比較的自由に他流試合をおこなっていました。竹刀打込稽古による廻国修行もよく行われるようになります。当時、基本的には廻国修行は禁じられていましたが、お伊勢参りなど宗教的なものにかこつけて行われていたそうです。
この時代は流派や地域などで道具の形態は様々で、技も多種多様な特徴がありました。
天然理心流はこの江戸中期の後半頃に創流されており、この頃の時代の流れで、当初から竹刀、韜での打込稽古ありきの教授体系であったと考えられます。
<江戸時代後半から維新、明治(1780~1870頃)>
この頃に大石進の影響で長い竹刀が流行り、これが今の竹刀の長さになるきっかけとなります。防具も堅牢な十三本穂の鉄面、竹腹巻、可動性の高い現在のような半小手も大石によって開発されました。
幕末から明治にかけ、竹刀での試合が剣術の修行の中心になります。この頃には、地域にもよりますが、剣術は撃剣とも呼ばれていたことが当時の文献などからも伺えます。他流試合が普通に行われるようになり、他流派と交流することが多くなります。これによりどこの流派でも似たような技が使われるようになっていきます(竹刀での試合で有効な技に限定されていく)。
・幕府講武所
ペリー来航の状況下で、幕府に於いてもようやく、鍛錬的撃剣や槍術の効用が認識され、老中阿部正弘の養成により海防参与に就いた水戸藩主徳川斉昭が、幕府に対して建言書を提出して講武所が設立されます。講武所では竹刀打ち込みに依る稽古が行われ、ここで3尺8寸という現代剣道にほぼ近い竹刀の長さが定められ、その激しい稽古故に防具の改良にもつながっていきます。
このようにして遠慮のない打ち込みが出来るようになり、竹刀剣術の迫真性の追求が達せられていきました。
<明治から昭和10年代(1870~1940)>
廃刀令が布かれて武士の世が終り、剣術など武術の必要性が薄くなっていく中で、その生き残りをかけた榊原健吉による撃剣興業が行われるなど、武術を見世物とする試みがありました。
西南戦争等で剣術が見直され警視庁等でも盛んに稽古されるようになり、また武術の教授を集団演習化して、教育現場や、軍隊訓練に入れ込もうとする動きも出てきます。
・大日本武徳会
明治三十年頃に武徳会という武道家の組織ができます。ここで剣術は剣道と呼ぶように定められます。
武徳会では実力や実績に応じて練士や教士、範士の称号があたえられ、これはかなり社会的な権威がありました。各地の道場(流派剣術などの道場)でも、流派伝統の形の稽古よりも、武徳会が制定した形(現在の日本剣道形と同じ物)の稽古と試合用の稽古が重視されることが多くなっていきます。
この流れで大正から戦前の昭和くらいまでには、各地方に江戸時代から伝わっていた流派はだんだんと消えていき、これが現在の剣道へとつながっていきます。
古来、日本民族は貴賤上下老若男女を問わず、刀を愛し武芸を好む性質を先天的に有し、その技芸はこの国で醸成され、時代時代で創意工夫し、多くの流派を生み出してきました。
神代に撃刀(たちかき)と呼ばれ、その呼び名は時代と共に改められ、太刀打ち、兵法、兵術、剣法、刀法、刀術、刺撃、剣術などと変遷して、撃剣、剣道となっていきます。
この歴史と共に培われてきた防具と竹刀は、現代に於いて日本武道の修行に欠かすことのできないものとなっています。
近年になり、古武道という概念が生まれる中で、この道具を使用した竹刀打ちは剣術流派の稽古方法の一つであるという見方もされるようになり、「撃剣」の名称は古の竹刀打ち稽古の代名詞としても使われるようにもなります。
武具を持ち自由な立ち合い稽古を行える、最も安全で信頼性の高い修行用具として位置づけられるこの洗練された道具を用いて、私達はこの歴史の末尾にあるものではないものを探そうとしています。
〈参考文献〉
カクヨム:古武道徒然草剣術・剣道・居合の歴史メモ(南北朝から昭和まで) 著者:@kyknnm
剣道の文化史ー剣術・撃剣・剣道、その文化としての成り立ちー 著者:長尾進
山梨県剣道史 発行:山梨県剣道連盟
